インタビュー

「東京一の飲食店を創る」―ポンコツからカリスマへ、国分寺「食堂 猿乃拳(モンキーパンチ)」オーナー RYO の軌跡(中編)

堕落しきった大学時代に見つけた一筋の光。それが当時(株)猿屋一家が運営していた居酒屋「猿酔家(サスケ)」だった。猿酔家との出会いで栗原氏は飲食道に進むことを決める。数々の伝説を残してきた国分寺のカリスマはいかにして生まれたのか。中編では、猿酔家の社員になってから今のスタイルを確立するまでの経緯を紐解いていく。

「東京一の飲食店を創る」―ポンコツからカリスマへ、国分寺「食堂 猿乃拳(モンキーパンチ)」オーナー RYOの軌跡(前編)2022年4月、東京都国分寺市にオープンした「食堂 猿乃拳(モンキーパンチ)」のオーナー RYOこと栗原 遼氏。それまでは国分寺を中心に...

RYOスタイルのベース

飲食業は命をいただく仕事

飲食業に対する考えが変わったきっかけは築地市場。先輩の仕入れについて行ったあの日、全てが新鮮でした。充満する生臭さ、初めて見る魚のボディ、そして活気。鰹と鮪の見分けがつかない僕でも、一瞬であの景色に心奪われた。たくさんの魚の中からこれと思うものを見つける楽しさを体感した一日でした。

感動は翌日も止まらず。先輩が吟味した魚が絶品料理に生まれ変わる。足を運んで、目で見て、頭を使って選んだ素材の華麗なる変身。だからこそ、ただ出すだけで終わりたくない。素材の良さや調理のこだわりを伝えて、お客様により美味しさを感じていただきたい。それをするのがホールなんだと気づいたんです。

築地で感じたのはもう一つ、「命」です。目の前に横たわる魚は当たり前だけど死んでいる。こいつらにも家族がいたんだよな。もしかしたら生き別れになったのかもしれない…。そう考えると悲しかったし、僕たち飲食業は命を預かって、命を届ける仕事だと痛感しました。

それをすごく伝えたくて、当時メニューによく付けたフレーズが“死ぬまで生きていた”。当たり前だろと言われたけど、僕たちは命をいただいている。それがどんなにすごいことかを伝えたかったんです。

覚醒した乾杯モンスター

今でこそどんな年代の方と話せますけど、当時は周りのこととかいろいろ考えすぎて少し遠慮していました。それをいち早く見抜いたのが源さん。僕の飲食の師匠です。

栗原氏が飲食の師匠と尊敬する古波蔵 源氏。現在は沖縄・那覇で「島ノ飯 みなもと」で沖縄食材を使った沖縄料理ではない絶品料理を提供している。

スタッフの顔色を伺う僕に「お前誰と仕事してるの?お客様としろよ」と一言。源さんのこの言葉で、もっと自由にやっていいんだ!と覚醒しました。

それからは乾杯攻撃(笑)。焼き場から頼まれてもないのにお酒を持っていって乾杯、お会計と言われても帰したくないから乾杯。怒られるのは先輩達。それを見て、あ、これはやばいのかと学ぶ繰り返し。

源さんがどっしりと構えていたから、僕が自由にできた。源さんがいたから、自分の振る舞い方がわかったんです。そのおかげで、ヒロ(斉藤 広朗氏)と独立したら厨房はヒロに、僕は自由に動こうとイメージが固まりました。

店長RYO爆誕

勝手に店長宣言

23歳になる年の12 月、源さんが独立のため猿屋一家を卒業することに。当時源さんは猿酔家の店長で、9月から他店に異動が決定。次の店長は2番手の僕にと、藤野さん(猿屋一家 代表取締役)と話したと聞きました。もうあまりにうれしくて、やらかしました(笑)。それが「勝手に店長宣言」。

初めての生誕祭。他の飲食店に頭を下げて貼らせてもらった思い出深いポスター。この生誕祭で初めて現在の名物・「アール・ワイ・オー(RYO)」の乾杯を披露した。栗原氏=RYOと浸透するきっかけになったイベント。

その年、初めて僕の生誕祭をすることが決定。生誕祭当日、勢い余って「僕、来月から店長になります!」と言ったんです。この時点ではまだ正式に決まっていないのに(笑)。藤野さんも源さんもびっくり。

こうして急遽8月に店長へ昇格。しばらく藤野さんには「勝手に店長になった人」と言われていました(笑)。

脱・源さんスタイル

源さんの存在が大きすぎて、店長になってからも源さんのやり方をしようとしていました。

源さんはザ・料理人で、猿屋一家ではカリスマ的存在。妥協せずにとことん料理を追求するスタイルがカッコよくて、真似ようとしたんです。でもこれが逆効果。その頃入社した同い年の雄斗(現在はサルノコシカケ所属)とぶつかって、何回も喧嘩しました。

そりゃそうですよね。キッチンにいない僕に料理のことを言われても「は?」ってなるし、説得力がない。藤野さんにも「お前はタイプが違う」と言われて、半年くらいかかって自分は違うことに気づけました。それからは先輩達に教わったことを噛み砕きつつ、僕らしい店長の在り方を模索する日々。突き詰めた末、確立できた一つがイベントです。

売上を上げるのはもちろんだけど、何よりも、お客様と一緒に楽しみたかった。高校の時のアルバイトで決めた「いつか自分で居場所を創る」を体現したかった。それで何個もイベントを企画しました。夏が終わるから乾杯しようとか、雪の日イベント、BBQもしましたね。

店長になって確立したもう一つがインスタです。源さんにとりあえずやれと言われて、何もわからない状態からスタート。続けるうちに目を引く投稿、猿酔家らしさ、僕らしさがわかってきて、出来上がったのが「Sarucyu」です。徐々に若いお客様も増えていったし、インスタを見て来てくださる方も増えていきました。


(猿酔家のインスタ投稿「Sarucyu」は「dancyu」(プレジデント社)をオマージュしたもの。創作が好きな栗原氏らしさが光る)

目の前のことを懸命に。やれることをコツコツ続ける。その甲斐あって、翌年には猿屋一家の最高月商を記録。結果を出せるようになってから僕の社員登用を反対していた先輩もだんだん認めてくれるようになったし、藤野さんにも「本店の店長です」と紹介してもらうようになりました。23歳から25歳で自分の地位を確認できたと思います。

ベトナムで気づいた自分の器

自信もついてきた矢先、自分の未熟さに直面しました。それがベトナム店・酒場サスケの立ち上げです。25歳の1月の時です。

ベトナム・ホーチミンの日本人街で「酒場サスケ」を運営する高村隼平氏。栗原氏にとって兄貴的存在。

与えられたミッションは料理監修。肉巻き串の店にしたいから考えてと。これが難しかった。酒場サスケの出店地はホーチミン日本人街で、ターゲットは40代後半から60代の在住日本人。日本人だからと慢心していたら、全く響かなかったんですよ。その頃、猿酔家は若いお客様向けに濃い味付けで、そのままの味で作ったんですね。そうしたら、僕の味付けが強すぎたんです。

出店場所に応じて味を変える。僕にとって大きな気づきでした。同時に、世界は広いなと。まだ猿酔家でしか働いていないのに奢ったらだめだ。このままじゃ通用しない。

もっと広く見て、もっと深く突き詰めて器を大きくする。その必要性を実感しました。

(後編へ続く)