インタビュー

「東京一の飲食店を創る」―ポンコツからカリスマへ、国分寺「食堂 猿乃拳(モンキーパンチ)」オーナー RYOの軌跡(前編)

2022年4月、東京都国分寺市にオープンした「食堂 猿乃拳(モンキーパンチ)」のオーナー RYOこと栗原 遼氏。それまでは国分寺を中心に飲食店を展開する(株)猿屋一家に所属。長らく店長を務めていた同社運営「猿酔家(サスケ)」を独立と同時に引き継ぎ、26歳で2店舗のオーナーに。これまで数々の伝説を残し、カリスマと言っても過言ではない栗原氏だが、過去を聞くと現在とのギャップに驚く。一言で表すならまさに “ポンコツ”。輝かしい現在に至るまでにはどんなストーリーがあったのか。これまでの軌跡を辿っていこう。

挫折し、希望を見つけた学生生活

中学は殿堂ベンチ、ヤンキー高校で参謀役に

子どもの頃は勉強も運動も苦手。小1から始めたサッカーは中学でもあまり振るわず。でもなぜかうまい子たちとは仲良かったし、監督にもかわいがってもらいました。試合には出られないけど毎回必ずベンチ入り。当時僕らの代が中学史上一番強いチームで、僕はその殿堂ベンチでした(笑)。

その時から心がけていたのは周りのケア。中学生って彼女との喧嘩とか、些細なことでパフォーマンスが落ちるじゃないですか。そういうことをさりげなく監督に報告してフォローしていました。

あとは声出し。「辛い時こそ声を出せ」が監督からの教えで、誰よりも出していた。その頃から場の空気を壊したくない気持ちは強かったです。

中学時代。友人は多く明るいキャラ。その傍ら、空想に耽る一面も。

必死で勉強したものの、入ったのはヤンキーが多い高校。しかも工業科だからヤンキーだらけ。パシリにはなりたくないし怒らせたくないから、ヤンキーの機嫌を取ったり顔色を見たりするようになりました。

ナンパするのは僕の役目。連れてこないと怒られるからとにかくトークに必死。気を遣う環境だから当然コミュ力が鍛えられる。例えるなら、高校時代の立ち位置は漫画に出てくる参謀役、インテリキャラでした(笑)。

高校ではヤンキーに負けないように体を鍛えたいと思ってアメフト部に入部。学校のジムを使い放題と聞いて、これは好都合だと。気合い十分で入ったけど、半年後に退部しました。ゴリゴリした部員相手の練習は死ぬほどきついし、入部してからジム使い放題じゃないと発覚。すぐ辞めたくなったけど、それでもなんとか粘って、初試合を迎えました。そこで退部を決心。左腕を骨折して心も見事にポキッと折れて(笑)、あぁもうギブだと。アメフト生活の幕を閉じました。

居場所を創るー初めて勤めた飲食店で決意

退部後に始めたのがアルバイト。ヴォーノ・イタリアという店で、これが僕にとって初めて勤めた飲食店です。この店がすごくて、ピザ・パスタ・ハーゲンダッツが時間無制限食べ放題、サラダ・ドリンクバーがついて1,500円。なのにちゃんと釜で焼いているし生麺使用。普通にうまい。ここでホールになりました。

僕にとって初めて常連様ができたのもヴォーノ。お客様と名前で呼び合える関係性がうれしかった。周りもみんないい人で、エリアマネージャーはかっこいいし先輩たちも優しい。かわいがってもらえて、毎回行くのが楽しかった。

自分を認めてくれる仲間、お客様がいる。これが居場所というものか。居場所っていいな。こういう居場所をいつか自分の手で創りたいーそう思うようになりました。

みんなの居場所を創る仕事に就く。ヴォーノで将来の大枠が決まりました。

堕落しきった大学時代

学業よりも遊び優先だった大学時代。ファッションと女子に夢中だった。

大学は無事に志望校に入学。志高く入ったんですけどね…入って間も無く遊び倒す毎日(笑)。大抵朝は寝坊して授業サボって、友だちと遊び行ってナンパするのがデフォルト。考えるのは遊びと女の子のこと。当然単位なんて取れなかった。

僕から言わせれば、普通にできている周りが疑問でした。なんでみんなできるの? と不思議で仕方なかった。

けれど違ったんです。“できるできない”じゃなくて“やるかやらないか”の問題。僕は単にやらなかっただけ。なぜか大学ではやれなかった。地元の仲間はみんな優秀なのに僕はどんどんダメになる一方。単位の落としようといったらもう恥ずかしすぎて言えないレベル。

いつからこんなダメになった? やばいと思いながらも、そのままダラダラと過ごしていました。

人生を変える出会い

転機が来たのは20歳。それが猿酔家との出会いです。ヴォーノの先輩に教えてもらって行ったあの日、今でも鮮明に覚えています。全部がやばい、かっこよすぎる。猿酔家には僕の求めるものが全部あった。

現在の猿酔家。薄暗がりの店内にはカウンター・テーブル席、半2階には個室を用意。

衝撃的だったのは3つ。ひとつめは店内。当時の猿酔家は今より店内が暗かったのに、スタッフの熱量で明るく見えたんですよ。

ふたつめは飲みながら働くスタッフ。お客様から一杯もらって乾杯して働いている。仕事しながら飲んでいいの? こんなことあり!? とカルチャーショック。

そして最後が、スタッフのかっこよさ。料理が遅くなったお詫びにサービスしてくれました。それが猿酔家の名物・肉寿司です。


(猿酔家といったら肉寿司。目の前で炙ってくれる。肉の甘み・肉汁が口の中に広がる至高の一品)

あまりの美味さにびっくりしたし、一瞬で心奪われました。こんなに美味いものをサービスで出すこの人たちって何者? すげーーーーー! って興奮状態。もう全てが初体験でした。

自由、楽しい、かっこいい。全てが猿酔家には詰まっていた。すぐに相方のヒロ(斉藤 広朗氏)を連れて行ったら、ヒロも同じく感動。ヒロのほうが興奮していたかもしれないですね。

親友との誓い

斉藤氏とは中学からの親友。大学を辞め、料理人になるべく京都祇園で修行後、(株)猿屋一家へ入社。2022年に栗原氏と共に独立。

それから2人で決めたんです。飲食の道に進もうと。猿酔家を越える店を、東京で一番カッコいい飲食店を2人で創ろう。20歳で決めている奴なんていない。今から本気でやれば絶対に成功する。迷いは一切なし。大学を辞めて飲食の道へ進むことにしました。

家族に告げると、全く反対されなくて。「やりたいならやりなさい、そういう子ってわかってるよ」と、むしろ理解してくれました。

その時に初めて聞いたのが親父の夢。本当は料理人を目指していたと知りました。「俺、本当は店出したかったんだよ。だからお前やれよ」と。

それを聞いたら尚更やるしかない。腹を括った瞬間でした。

いざ、猿酔家へ

初日でガン泣き

大学を辞めて、晴れて憧れの猿酔家へ。21歳の時です。やる気全開、夢は膨らむ。高鳴る胸を抑えて迎えた初日、見事に撃沈しました。ヴォーノで5年間ホールだったのに何もできない。声の出し方ひとつとっても、ヴォーノとは全く違う。猿酔家の常連だったヴォーノの先輩が「あいつはすごい」と言ってくれていた分、そのギャップが激しくて。あまりの出来なさに周りも愕然。初日からめちゃめちゃ怒られました。

号泣しながら自転車をこいだ帰り道、それまでの人生が走馬灯のように浮かびました。

運動も勉強もできない、大学ではどんどんダメになる。それなのに、みんな離れず仲良くしてくれた。ここまで来れたのはみんながいてくたからなんだよな…。改めて周りに感謝したし、同時に自分の無力さに落胆。絶壁に立たされたような気持ちでした。

それからというもの、覚えることが多すぎて毎日パンク状態。ある時はトマトの肉巻きをド忘れして「スーパーボールです!」と言い、またある時は生ビール10個を一気に運んで見事にこぼし、先輩に「もう死にたい」と言わせる有り様。できない自分が情けなくて悔しくて、何度も営業中に裏で泣いていました。

ダメダメバイターから社員へ

そんな僕でも社員になれたのは、退職する先輩が後釜に僕を推薦してくれたから。周りはもちろん大反対。唯一賛成してくれたのが藤野さん((株)猿屋一家 代表取締役)でした。「いいじゃん、やる気あって。面白いじゃん」。その一言で無事社員になれました。

社員になってしばらくは猿酔家ともう一店舗を往復する日々。当時、神保町に系列店のそば業態があって、午前はそこで仕込みからランチ営業、夕方になると猿酔家へ。朝7時に起きて夜2時に帰る生活。疲れすぎて電車を寝過ごしたり営業中に立ったまま寝たり(笑)。さすがに猿酔家は22時にあがっていいと言われたけど、絶対最後まで残っていました。

気力体力は既に限界。だけど、やれるところまでやりたかった。いつでもどんな状況でもやる気だけはあったし、少しでも早く成長したかったんです。

忘れもしない「米騒動」

 今でも忘れないのがある雪の日。神保町の店舗はオフィスビルのフードコートに入っていて、悪天候のランチは決まって混む。店のうりは蕎麦と定食のセットで、その日は雪だからいつもより混むことが目に見えていました。そんな時にやらかしたのが通称「米騒動」です。

仕込みをひとしきり終え、先輩が炊飯ジャーを開けると、そこにあったのは空炊きの米。米を炊くのは僕の役割。いつも通り米を研いでセットしたつもりが、疲れすぎて水を全部捨てて炊いてしまったんです。最初何が起こったのかわからなくて時間が止まりましたね。

「今は怒らないから、まずは米を集めてこい」。そう言われてフードコートの店舗に片っ端からお願いして米をかき集めました。その後も手を尽くしてなんとか無事終了。僕史上指折りの珍エピソードです(笑)。

藤野社長、先輩たちと。(株)猿屋一家は35歳定年制。卒業後は独立を目指す。卒業後もみんなで集まり切磋琢磨する間柄。

社員になっても相変わらずポンコツで普通なら見捨てられてもいいレベル。だけど、先輩達は見捨てずにかわいがってくれました。営業が終わると国分寺のいろんな飲食店に連れて行ってくれた。

毎日怒られるし悔しい。それでも行ったのは、先輩達といたかったから。話全部が面白かったし、一語一句勉強になった。毎回必ずいじられるけど(笑)、できる限り一緒にいて、吸収できることは全部吸収したかった。

怖い、厳しい。だけど最高にカッコいい。この人たちについて行きたい。その一心で食らいついて行きました。

(中編へ続く)